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宗慎茶ノ湯噺

【宗慎茶ノ湯噺】其の十四「野点」

【宗慎茶ノ湯噺】其の十四「野点」

野点と茶の湯

野点とは、茶室を離れて屋外でお茶を楽しむということ。大自然に抱かれながら、お茶を一服。非日常を謳う茶の湯の中にあって、とりわけ特異な振る舞いと言えるでしょう。

ここで少し立ち止まって考えてみたいのですが、茶の湯とは一体どんな行為であるのか。

“市中の山居”という言葉を思い返してください。都市の只中に清潔で簡素な茶室をつくり、イマジネーションの中に自然を再現する。大都会の真ん中にあえて設けた小さな茶室の中に、あたかも宇宙のすべて、自然のすべてが浮かんでくるかのような場をつくりあげる。それが茶の湯です。

その観点で、実は、野点は茶の湯とは真逆。茶の湯が本来持っているコンテクストや仕掛けを破壊しかねない行為です。ここを誤解している人が多いのではないでしょうか。野点を否定するわけではありませんが、一歩間違えると元も子もなくなってしまいます。

井の中の蛙、大海を知らず。されど…

狭い茶室が宇宙であり、自然であり、全て。まぶたを閉じればすなわちそこが桃源郷である。あちこちに出かけることが真理への道ではなく、小さな茶室の中で事足りる。一見がらんどうで何も無い、でもそこに全てがある。これぞ茶の湯の醍醐味です。

まさに、“壺中之天(こちゅうのてん)”。これは、『後漢書』の「方術伝」に出てくる、中国の故事のひとつ。小さな壺の中に飛び込んでみれば、必要なものが揃っていて、俗事を忘れてその世界で楽しむことができる。古来より親しまれてきた神仙にまつわる伝説です。

ただし、“壺中之天”は、見方を変えれば“井の中の蛙”。謗りも受けかねません。視野が狭い、独りよがりで世間知らずだ、と。“井の中の蛙”の出典は『荘子』。中国から伝わった言葉ですが、日本人は、そこに大切な一行をつけ加えました。

“井の中の蛙大海を知らず、されど空の高きを知る”

空の高さ、だけでなく、蒼さ、広さなどバリエーションがいくつか。どれも出処ははっきりとせず、誰が言い出したことかも分かっていません。でも何ともお見事な二の句だと思いませんか。

茶の湯とはどんなものか、との問いかけに対するひとつの答えです。閉ざされた小さな茶室の中だからこそ、わずかな音に耳を澄まし、移ろう陰に思い致すことが出来る。無いことが有ることを超える。「市中の山居」は時に、本物の自然などよりもよほどクリアで濃厚なインスピレーションを与えてくれます。

格を外すことが野点の醍醐味


では、野点は駄目かというと、そうではありません。

人をもてなすには“ご馳走”が必要です。ご馳走とは何か。その答えは、駆けずり回って走るという文字にあります。誰かのために薪水の労を取る。薪を割り、清らかな水をくみ、湯を沸かして、一服のお茶を分かち合う。茶の湯のもてなしの原点です。

考えて見て下さい。全部自然の中で出来ることです。むしろ、茶室よりもご馳走を整えるには、野点の方が距離はよほど近い。

大切なのは、こうした時に「お茶をやる時はかくあるべし」という考えを捨てること。お茶を長くやっている人ほど気をつけていただきたい。

見立て、侘び寂び、そんなことは全部忘れて下さい。とにかく自然の中でお茶を一服楽しむだけ。型とか稽古とか、そこから自分を一度まっさらにして、自然との一体感を味わう喜びを余すところなく受け取って欲しい。

格を外すことが、野点の醍醐味です。リフレッシュ、というか一度、小手先の知識、心の垢に塗れた心身を、洗い流すためにも、お茶を始めてある程度時間が経った人ほど、改めて野点に出かけ方がいい、そんなことを考えたりします。

自然の中で、小手先の見立ては不要


お菓子は、携帯用に便利な振り出しなどの容器に、金平糖や豆菓子などを入れておくのが良いとされてきました。腐りにくく、小さくて運びやすいからです。

条件を満たせば、別にそれと限りません。キャンプでバーベキューをするように、その場でつくれるお菓子もいいかもしれません。もしくはその土地を味わうという意味で、出かけた先の銘菓を求めるのも素敵です。

道具は、コンパクトでうまくまとまった簡便なセットが必要になります。持ち運びやすく、壊れにくいもの。その取り合わせを自由に考えてもらいたい。

水はその場で捨てられるし、花は活けずともそこに咲いている。そういう意味で、建水や花入れなどは無くても構わない。茶籠や茶箱で建水が必要とされたのは、別の理由からです。要するに、茶碗をその中に仕組んでおくことで壊れなくなる。陶磁器の保護が一つの目的でした。野点では、茶室の中以上に機能性が重要になってきます。

古の茶箱の名品の中には、小さな掛け軸や花入れまで入っているものもあります。が、あれは、ミニチュアールを集める快楽。言い換えればお人形遊びのお飯事セットの高級版。

雛人形のお道具などにも通ずる、小さくかわいらしいものを取り揃える喜びの典型的な例であって、必ずしも野点の本来の目的とは一致しません。もちろん大きな要素であることは否定しませんが。

掛け軸もその意味を考えると必要ないことが分かります。

“独坐大雄峰”、“青山緑水”といった掛け軸。あれは、書かれた字句を目の当たりにし、瞼を閉じ、胸の内にイマジネーションとしての自然を浮かび上がらせるための触媒です。「胸中山水」の鍵とするために茶室に掛けられているもの。そもそも大自然の中にいる場合にわざわざそれを意味する言葉の記された掛け軸などを用意することはナンセンス極まりない。

野点を通じて、茶室・数寄の空間の価値を思い知る

自然の中に赴くことで、普段のイメージとは異なる発見にも出会います。自然とは、本来過酷で厳しいものです。だからこそ、自然・質朴・素であるといったものごとのポジティブなイメージ、いいところだけ集めて、再構築したのが茶室とも言える。

その意味では、野点は厳しく雄々しい自然を目の当たりにする良い機会。却って茶室、数寄の空間そのものの持つ価値や力を思い知るための得がたい時間となるでしょう。火を起こし、水を汲むだけでも一苦労。蚊も飛んでいる、虻もよってくる、アウトドアは決して楽ではありませんから。

最後に、利休の野点にまつわる話を。

秀吉の九州征伐に同行した利休は、現地の青々と茂った茅(かや)を刈り取らせ、その茅で屋根を葺き、壁も一面青い茅で立ち上げて即席の茶室をこさえたとされています。

同じく九州 筥崎の野点も有名です。松の枝に鎖で釜をぶら下げて、炭に火を起こした際、辺りに散らばっていた松葉を集めて、さらには松ぼっくりまで入れて燃やし、燻べた。その煙・松の香りとともに、秀吉のためにお茶を一服点てたそうです。

いかにも大名らしいエピソードですが、何も、無茶なことをやれというのではありません。その場にあるものをうまく使いましょう、という教えです。

せっかく自然の中に出かけていくのだから、そこにあるもので工夫して楽しもう。煙たい香りすら、松原ゆえの喜び。そうした自由で大きな心構えをもたらすのが野点の効能であると思います。もてなしとは何か、一度立ち止まって考えて欲しいと思います。

経験者ほど、最初は茶室でやっていることを、そのまま自然を“見立て”てやりたくなるでしょう。それは良い意味であきらめて、格を外すと言う言葉の真意を知る意味でも、ぜひ本当の野点にチャレンジして欲しい。

幸い、今の我々は、利休よりも、秀吉よりも、郊外に出かけたり、野趣あふれるアウトドアを味わうことが簡単になっています。現代のグランピングやキャンプは、どれもかつての大名並み。道具も何もかも用意すること、段取りに関して、かつてを思えば天文学的に簡単です。利休や秀吉に負けない野点がすぐそこに。楽しみましょう。

文:木村宗慎

茶人・芳心会主宰。茶道ブランド「茶論」総合監修。 少年期より茶道を学び、1997年に芳心会を設立。京都・東京で同会稽古場を主宰。 国内外のクリエイターとのコラボレーションも多く手掛けており、様々な角度から茶道の理解と普及に努めている。 2014年から「青花の会」世話人を務め、工芸美術誌『工芸青花』(新潮社刊)の編集にも携わる。 著書に『一日一菓』(新潮社刊)、『利休入門』(新潮社)、『茶の湯デザイン』『千利休の功罪。』(ともにCCCメディアハウス)など。

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