読み物
宗慎茶ノ湯噺
【宗慎茶ノ湯噺】其の十五 渦中の茶
想像だにしなかった混迷が世界を覆いつくした一年でした。
新型コロナウィルス感染症の流行です。
日本では今年の春、集団感染を防ぐために、三月十四日の総理大臣官邸公式Twitter上で「三密 (密閉空間、密集場所、密接接触場面)」を避けるように注意が促され、社会的距離を意味するソーシャルディスタンスという和製英語が声高に叫ばれるようになりました。外出自粛が求められ、ロックダウンが実施されたおり、不足するマスクが高値で路上販売され、お家にいよう、お家にいようと其処かしこで聞こえよがしに連呼する様は、一種の悲喜劇でした。
病禍への恐れは我々の生活を一変させ、当然ながら様々な取捨選択を迫られました。結果、「不要不急」の冠をいだくふる舞いは、ことごとく中止を求められ、多くの娯楽はしばし中断。我慢を強いられることになったのですが、その一つが茶の湯でした。
数多の茶会行事が中止となり、家元、宗匠は各々、稽古の中止を呼びかけました。第三波の襲来が言われるこの年末、話題は、毎年恒例の初釜をどうするのか、です。それぞれの家ごとの判断で、中止、延期、縮小と対応もさまざま。
いたずらに大人数を競うような茶会は否定され、見直しが迫られている、これは良いことです。茶の湯本来の姿は、小人数での茶事です。それを基軸に茶会の在りようも新しい工夫がなされていく、規模よりも質が求められる時代が訪れることでしょう。
とは言え、案ずるに茶の湯は「三密」の極みです。狭ければわずか二畳ばかりの庵室に、大の大人が幾人も膝を突き合わせ、あまつさえ一つの茶碗に口を付けて皆がすすり合う。嗜みの無い、もしくは興味を持たない人から見れば、そもそも摩訶不思議、奇妙奇天烈なふるまいに相違なく、只今のコロナ渦中ならば、狂気の沙汰の謗りを免れません。
一期一会に臨む主客の関係性と覚悟
濃茶の回し飲み、これはどうなるでしょう。お客様それぞれに各服にするなど工夫は大切です。しかし、ニューノーマルの生活様式にならい、濃茶を回し飲みするなどはそもそも止めにすればよい、といった過度な反応には、私自身は少なからず違和感を覚えます。元来、茶の湯などというものは戦場を行き来する武将たちの心を慰撫するもの。抗生物質はおろか、近代的な医療と衛生の知識など皆無であった頃、今の我々以上に日常に怯えのあったであろう先人たちは、それでも清浄礼和を心掛け、あの狭き一会を敢えて求めたのです。一味同心の醍醐味の実現には、観念論だけでなく実際に一つの茶碗からおもあいですすり合うことも不可欠だという思いを捨てきれません。
ひとつ戦国武将のエピソードをご紹介しましょう。関ケ原合戦で、徳川家康と戦った石田三成と大谷吉継にまつわるものです。
二人は年若い頃から豊臣秀吉の下で共に汗を流した盟友でした。ところが、残念なことに大谷吉継は今で言うところのハンセン病に罹患してしまいます。そこで、周囲の武将たちは、吉継の才覚を惜しみ、付き合うことは止めませんでしたが、同じ茶碗から濃茶を回し飲みすることは嫌って、一緒に茶席に入ろうとはしなくなりました。
ひどい時には、実際に茶碗に口を付けたりせず、飲む真似だけをするような者もいました。
一五八七年に大坂城で行われた茶会でのこと。茶碗が回され、吉継の番になった時、なんと吉継の鼻水(または膿)が茶の中に落ちてしまったのです。ただでさえ皆、自分の後に飲むのを敬遠しているのに、まさか自分の鼻水の入った茶を誰が飲むだろうかと吉継が呆然としている、その時です。
横にいた石田三成が「吉継殿、早く茶碗を回してもらえないだろうか」と言って、委縮して身の縮む思いでいっぱいの吉継の手から、強引に茶碗を取り一気に飲み干したのです。これに感じ入った吉継は「我が命は三成公に捧げよう」と堅く心に誓い、優劣など関係なく、三成の味方として関ヶ原に出陣したといます。
極端な物語です。しかもこの逸話、出典がはっきりと分かっておらず、江戸時代になってからの作り話とする説が有力です。明治以降の書物の中には、似たような物語が秀吉の逸話として紹介されているのも見受けられ、吉継の病気も、梅毒や眼病など諸説紛々で、やはり真偽のほどは曖昧です。
ただし、一期一会に臨む主客、お互いの関係性と覚悟とはどんなものか、を教える上では、実に有効な教訓を与えてくれます。
病禍も怖いですが、もっとも恐ろしいのは人の心だ、と今更ながら、この間考えさせられる一年でした。今、我々が目に見えないウィルスに怯えるのは、取りも直さずこれまでの生活が万能感に満ち溢れ、安心安全を当たり前であると過度に信じて疑わなかったことの裏返しです。一碗の濃茶を前に反省すること、しきりです。
茶は渇きを医するに止む
新型コロナウィルス感染症との闘いを“戦争”に喩える声も耳にします。であるならば、尚の事、茶の湯の如き、人の心に潤いを与える文化の香が必要です。
例えばそれは先の太平洋戦争下でも同じこと。今のマスクは、かつての防空頭巾。すでに亡き私の師匠たちも、苦しい生活を強いられた戦時下、統制によって菓子をつくる砂糖はおろか、抹茶の入手すらままならぬ中、それでも細々と可能な掛け釜は続けて絶やさなかった、と聞かされて育ちました。空襲と灯火管制の最中も変わらずであった、と。
最新の知見を基に、必要な手はずを整えた上で、茶の交わりは続けていくべき、と私は強く思うのです。実際に爆弾や鉄砲矢玉が降って来る訳ではなく、ウィルスという目に見えない敵との闘いはまた状況が異なる、との冷静なご指摘はごもっとも。不要不急の謗りを受けること、承知の上です。
しかし、閉塞感のただよう、かかる状況下に人の慰みとなることは、茶の湯の本意であると些かの自負もあります。殺伐とした人心を和らげるのは文芸に如かず。もとよりこれしか出来ない身上です。
「茶は渇きを医するに止む」。利休の言葉のひとつとされ、古来、我が邦で大切にされてきました。人の“渇き”とは何でしょう。一碗の茶がありがたいのは、喉を潤すことばかりではないはずです。
普段どおり、が叶うことは、常と変わらずに。
顔の見える関係を大事に、縁ある人との束の間の交わりを求める茶の湯の価値は、むしろ今後ますます高まっていく、私はそう信じています。形を変えることに問題はありません。知識も取り入れ、止むことなく工夫を重ねていけば良い。
さまざまな情報に惑わされることなく、茶の香気を友に、努めて穏やかに毎日を送りたいものです。
新しい年が、明るいものでありますように。
木村宗慎
茶人・芳心会主宰。茶道ブランド「茶論」総合監修。 少年期より茶道を学び、1997年に芳心会を設立。京都・東京で同会稽古場を主宰。 国内外のクリエイターとのコラボレーションも多く手掛けており、様々な角度から茶道の理解と普及に努めている。 2014年から「青花の会」世話人を務め、工芸美術誌『工芸青花』(新潮社刊)の編集にも携わる。 著書に『一日一菓』(新潮社刊)、『利休入門』(新潮社)、『茶の湯デザイン』『千利休の功罪。』(ともにCCCメディアハウス)など。