読み物

宗慎茶ノ湯噺

【宗慎茶ノ湯噺】其の八「神奈月 名残」

【宗慎茶ノ湯噺】其の八「神奈月 名残」

名残り

十月も半ばを過ぎると、茶の湯の世界は〈名残り〉という時季を迎えます。この〈名残り〉の言い習わしには、いくつかの意味が含まれてゆかしいものです。

まずは晩秋、あとわずかになった秋の時候を惜しむ「秋の名残り」。

次いで、半年慣れ親しんだ風炉(ふろ)のしつらえが十月で終わるところから「風炉のしつらえの名残り」。夏のあいだ楽しんだ山野草の数々ともしばしの別れ。

最後に、茶の湯における本来の名残りの意味を語るなら、それは茶壺に残り少なくなった葉茶の名残りです。初夏八十八夜の頃に摘み取られた新茶は、茶壺に封印の上、半年の熟成を経て、炉開きを迎える十一月(陰暦十月)にはじめて飲まれる、というのが古来の作法。十一月が〈茶人の正月〉とも呼ばれる所以です。

かつてのルールでいけば、十月ともなれば、茶壺にたくわえられていた茶葉も底をつきかけて、心もとなく、まさに名残り惜しい様になっていました。いよいよわずかになり果てた茶葉を大切に一服喫しながら、時の移ろいに思いをいたす。

名残りとは、茶の湯ならでは、実に奥行きのある“侘び”の時季と言えます。

侘びの取り合わせと「巧者のお茶」

名残りの時季は、翌月に炉開き、口切の祝儀が待っていることもあって、その華やかな茶席の演出と対比する意味合いもあって、もの寂しく侘しい、やつれ果てた風情が好まれる時季です。

もちろん深まり行く秋、先に伝えた名残りの気分も手伝ってのこと。

具体的には、本来ならハレの茶席の“ご馳走”とはなり得ない、割れたり、欠けたりしたものを繕った道具が喜ばれ、不揃いの器をバラバラに寄せ合わせたりする取り合わせが行われます。顕著なところでは〈呼び継ぎ〉という技法により、異なる焼き物の欠片を集めて、ひとつの茶碗に仕立て上げたものがあります。懐石のおりに、おそろいの食器を使わずに、客ごとに銘々違う向付を用いたりする趣向は目にも楽しいところ。黒漆の下地に朱漆塗りを施した根来(ねごろ)に代表されるような、素朴さ、手強さが売りの塗り物もてはやされたりもします。やつれた木地のあらわれた器物も同様です。常よりも踏み込んだ“見立て”が手柄となることも。例えば、本来なら食器であったはずの片口を茶碗や鉢に、割れたままの陶片を菓子皿にといった具合です。

流派によっては中置(なかおき)のしつらえも行われます。火の温もりが恋しくなる晩秋のこと。壁際に遠ざけていた風炉を、少し客の方に近づけて置き合わせるのです。

とにかく、見た目にわかりやすく“侘びた”風情の演出が重要視されるわけです。ここが難しいところ。ただただ古びたものばかりを取り揃えたのでは、侘びを通り越して小汚くていただけません。

昔から茶の湯の世界、ひいては美術・骨董・道具の世界で使われる言い廻しのひとつに〈じぼたれる〉という言葉があります。これは、自ら惚れる、自惚れるという字を当てて、「自惚たれる」と読み替えたものです。ほかにも、「不自由らしい」が縮まって「ふじゅったらしい」との語も。これらは、欠けたり壊れたりやつれたものを無理に取り揃えてきたことによって、全体的な取り合わせや、席内の雰囲気が何とも小汚らしく、かえって理屈っぽく説明的になってしまう結果を戒めたことばです。

そうした訳で、十月の名残りの茶は、昔から〈巧者〉のものとされ、侘び茶人にとってはセンスが問われる、よほど手馴れてないと難しい、と目された季節でもありました。

なにも難しい話ではなくて、今の私たちの日常でも似たような課題はそこかしこに。
ファッションにおける古着の取り扱いなど、最高にクール!と好感をもって受け入れられる場合もあれば、一歩間違えるとただただダサくて不潔な印象に。やつれたジーンズを着こなす“おしゃれ”。簡単なようでいて、なかなかに難しいものです。何ごとも過ぎたるは猶及ばざるが如し。

秋の夕暮れと侘び茶の心

秋は夕ざり、夕暮れの美しい季節です。
昔から〈侘びとは何か?〉という問いに対する答えとして用いられてきた古歌のなかに、いずれも「秋の夕暮れ」で終わる三つの有名な和歌〈三夕の和歌〉があります。

「寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮法師)
「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行法師)
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)

特に、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という句は、利休の師匠とされる茶の湯者、武野 紹鴎(たけの じょうおう)が、侘びとはこの和歌のような心持を指すのだと、引用したとの逸話で有名です。季節はうつろい、色鮮やかに咲いていた花も、絢爛たる紅葉もやがてはなくなってしまう。枯淡のなかに澄みわたった心情こそが、茶の湯の精神〈侘び〉である、と教え諭したのです。


秋の夕暮れ。ただただ見た目に枯れて、やつれた風情を求めるのではなくて、簡素、質朴のなかに清潔な美しさを見出す工夫。どこまでも〈ふじゅったらしい〉くて〈じぼたれた〉ひとり善がりの侘びの演出とならぬよう、考えてみたいものです。

「釜一つあれば茶の湯はなるものを 数の道具をもつは愚かな」という利休道歌があります。何でもいいから、自分なりのご馳走ひとつ。大切です。
秋は実り豊かな季節でもあります。柿や栗や様々な木の実など、秋の味覚を上手く取り入れながら、難しく考えすぎず、勇気をもって愉しめばよい、そうも思います。

誰しも、自分が好きなもの、慣れ親しんだ道具であれば、どんなに、欠けて、壊れて、やつれても、直したり繕ったりしながら、長く大事に使いつづける。十月はそんな、かつては当たり前だった“普段”の暮らしが大切だ、と気づかせてくれる季節です。
物に溢れ、使い捨てを気にもとめない現代だからこそ、名残に寄せる古の茶人たちの姿勢を時おり思い出して、一服たのしみたいものです。

文:木村宗慎

茶人・芳心会主宰。茶道ブランド「茶論」総合監修。 少年期より茶道を学び、1997年に芳心会を設立。京都・東京で同会稽古場を主宰。 国内外のクリエイターとのコラボレーションも多く手掛けており、様々な角度から茶道の理解と普及に努めている。 2014年から「青花の会」世話人を務め、工芸美術誌『工芸青花』(新潮社刊)の編集にも携わる。 著書に『一日一菓』(新潮社刊)、『利休入門』(新潮社)、『茶の湯デザイン』『千利休の功罪。』(ともにCCCメディアハウス)など。

一覧に戻る